光秀の本能寺での襲撃で、かんじんの信長の遺体が焼けあとから出てこなかった。信長を討ったはずだが「首が見つからない」へたをすれば猛火の中を逃げたのでは、光秀はあせったが、とうとう出てこなかった。
秀吉は本能寺の変後、毛利と和を結んで備中からとって返す途中、信長の各武将達に「信長殿は光秀の襲撃を無事に切り抜けた」と手紙を出して自軍への参陣を呼びかけている。信長の恐ろしさを知っている各武将達も「ひょっとしたら殿は生きているかもしれない」と思うのが当然。このあたりの心理をうまく利用した秀吉の頭(こうべ)の早さは、たまげたものである。
逆に遺体があったならあるいは、光秀側に有利な状況になったのかもしれない。頭のすぐれた光秀も、合戦心理をうまく利用した頭(こうべ)の早い秀吉にはかなわなかった。
山崎の合戦での兵力は、光秀軍一万六千に対して秀吉軍四万。敗北した光秀にも、秀吉が指導権を確立する前だったら勝てるチャンスもあったのかもしれない。
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