戦国新報
 
 
平成8年 前期
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お互いに認めあっていたエリートと農家のせがれ
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 天正十年の「山崎の合戦」は、織田から豊臣への政権交替の戦いであった。秀吉にとって本能寺の変が起こるまで、まさかあの光秀と戦うとは思ってもみなかっただろう。山崎の合戦が終わって日がたつにつれ「光秀よすまないな」と思っていたのかもしれない。結果的には秀吉のために天下取りへの道を開いてやったようなものだから、秀吉にとって光秀は、ある意味では恩人のようなものである。光秀がもし謀反を起こさなければ、秀吉は生涯、織田家の一武将で終わっていただろうと思う。
 また秀吉は光秀の謀反についても同情的であった。「主君信長公は確かに勇将だったが、良将ではなかった。剛が柔に克つことはあたりまえとするが、柔が剛を制するのを知らなかった。これが明智のような謀反が起こる所以だ」秀吉は、光秀の謀反は信長の性格にも原因があったことを指摘したのである。このように二人の仲は決して悪くはなかったはずで、二人ともお互いに相手を高く評価していたようである。
 本能寺から山崎の合戦までの光秀の行動には、もはや天下をねらう武将のタフさはなかった。信長を討った後の光秀は、軟弱なエリート武将にすぎなかったのだが、それでも家臣の心は光秀から去らなかったのである。いかに彼のリーダーシップが家臣に浸透していたのかを物語るようである。
 今の不況な世も、従業員一同心をひとつにして経営者を盛り上げることで、この不況を乗りきることができるのではないだろうか。だが、むずかしい。
【文:高田 金道】