戦国新報
 
 
平成6年 後期
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素早い対応の秀吉と小早川隆景
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 秀吉は中国地方の毛利軍との戦いの中で、信長が本能寺で殺されたとの悲報を聞き、すぐに毛利方に和睦を申し込んだ。この時、毛利方では、和睦をやめて秀吉を追撃しようと主張した武将達がほとんどであった。光秀からは「手を組まないか」と密使が来ていた。
 だが、小早川隆景は反対した。秀吉をやぶって天下を治めるという戦いに対する毛利方の力はない。領民のことを考えれば、国を治めるには中国地方で精一杯だ。明智と組んでもやがては争うようになる。
 結局、隆景の主張に賛同する武将達が多くなり、毛利軍は秀吉の和睦の申し出を受けたのである。
 決して毛利軍は信長の死を知らずに秀吉のペテンにひっかかった訳ではなかった。隆景の考え方に従って、そういう選択をしたのである。
 今の時代で考えれば、隆景の考え方は、あくまでも毛利本社と吉川家、小早川家の支社を存続させる事にあり、妙な気を出して実力以上のことに手を出さず、分相応の生き方をするということである。
 また、この時の秀吉の対応が素早かったことが、天下人へのきっかけになったようだ。
【文:高田 金道】