戦国新報
 
 
平成7年 後期
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エリート光秀と庶民的な秀吉の戦い
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 山崎の合戦で光秀軍一万六千、秀吉軍四万。光秀は信長の暗殺で『恩知らず』と言われ、親戚筋の大名達からも見捨てられたが、反対に秀吉は『殿の仇討ち』という大義名分があり、各武将達も多く賛同している。だがそのこと以上に秀吉は以前に織田家中の武将達に『恩を売っている』。
 越前浅倉義景を攻略中、妹のだんなである浅井長政が反旗をひるがえし、圧倒的有利だった織田軍が逆に不利になり、信長は戦場からあと一歩のところで撤退を決断するはめになった。だが、問題は誰が楯になって『しんがり』を努めるかということであった。その時に『私がやります』と申し出たのが秀吉であった。信長は『切なる忠節浅からず』と涙を流して感激し、戦場から撤退したのである。織田勢の重臣達にとっても秀吉は『命の恩人』になったのである。
 先週述べたように、光秀の『恩しらず』と秀吉の『恩を売る』との違いが、山崎の合戦での勝敗を大きく左右したのである。
 『恩』をキーワードとする両者の戦い。立場は他人が恩知らずと見るか、また恩を感じてもらえるかは、その人の人徳であるようだ。プライドの高い人、頭のさがる人、窮地に立たされてこそ、その人の真価が問われるようである。
【文:高田 金道】