戦国新報
 
 
平成7年 後期
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徳川三百年の基礎を造らせた三成
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 関ケ原の合戦前、三成の頭の中には「打倒家康の旗を掲げれば豊臣大名はこぞって家康に対して戦いに立ち上がるはず」という思いがあったのではなかろうか?だが武断派の武将達は誰も賛同しなかった。その原因は、若くして秀吉の側近に取り入れられた三成が、同じ子飼いの武将達の前であまりにも「小賢しい」まねをするため、各武将達から反発を買ったことにあるようだ。
 また、常に秀吉のそばにいた三成は、天下人とはいかなるものか一番知っていたはずであり、自分は到底その器でないことも十分承知していたに違いない。
 関ケ原の合戦後、負けて捕らえられた後、三成は子飼いの武将達に「太閤殿下の恩を忘れ、義を捨て約束を違え他人に協力をしたお前達は、武将として恥じる心はないのか」と激しく叫んだようだが、いくら叫んでも戦に負けてはなんにもならない。
 三成ももう少し、計算高く「利」と「炊」で要領良く動いていたら、佐和山城主として一生を全うできたかも知れない。
 早過ぎた武士道であり、結果として徳川三百年の基礎を造らせた事になるようだ。不義が義に勝るとは悔しいけれど、それが戦国時代だと思う。
【文:高田 金道】