戦国新報
 
 
平成5年 後期
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桶狭間の手柄の表彰式
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 織田信長は桶狭間の合戦で、一躍その名を天下に知らしめた。戦が終わると信長は現地で家臣の表彰式を行なった。誰もが一番の功労者は、当然、今川義元の首を取った服部小平太と毛利新助の二人だろうと思った。が、信長が発表したのは、梁田政綱という武士であった。功労第一位の理由に対する、信長の説明は次のようであった。
 梁田は桶狭間一帯や田楽狭間一帯で地域の農民からいろいろな情報を得ていた。まず地域住民が今川軍に叩きおこされ大規模な炊き出しをさせられている。そして炊いている米が、田楽狭間のほうが上等である。その結果、大将や重臣達がそこに結集していると思われること。
 これだけではなく、梁田はさらに気象状況を報告した。昼頃にこの地形にちょっとした低気圧が来る。それを利用したらどうかということであった。
 信長は全員を見渡して言った。「梁田のもたらしたこの数々の情報によって、四万の敵に、わずか二千の兵で勝った。この勝利はすべて梁田の情報による。これからは全員梁田のようになってくれ」
 切実と訴える信長の言葉に、不満のあった部下達も功労第一位の理由を理解した。
 いかに情報が大事か、今の時代もそれは変わらない。
【文:高田 金道】