戦国新報
 
 
平成8年 後期
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予定は未定、大きな計算違い
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 本能寺で信長を討った後の明智光秀の大きな誤算は、婚戚関係だった細川幽斎、忠興親子が味方につかなったことである。また、光秀の手下大名で光秀に大きな恩恵を受けていた筒井順慶も味方につかなかった。ただ、筒井順慶「洞ケ峠」まで出陣したのだが、とうとう最後まで迷っていた。順慶には天下取りの野心はなく、自分の領土を守り家族を守ることで精いっぱいだった。
 光秀にとって結果的に細井幽斎、忠興親子、筒井順慶、中川清秀、高山右近等の有力な配下を自分の味方に引き入れられなかったのが大きな誤算だった。それは光秀の人望の無さにも原因があるが、決してそれだけではない。やはりこれらの武将達にとっても自分の家、家臣を守ることに精一杯だったと思われる。
 光秀の兵は精鋭で知られ、本能寺の時にも決して逃げ出す者がいなかったし、秀吉との山崎の合戦でも兵力は秀吉の三分の一にかかわらず、戦死者は、圧倒的に優位だった秀吉側とほぼ同数であった。光秀もよく戦ったのである。総力戦においては自分の部下だけでは勝てない。部下以外にどれだけ味方や応援団を作れるかが勝負を決める。光秀には、選挙と同じでそういう浮動標をつかむ力量がなかったのである。
 本能寺の変後、一瞬光秀に時の勢いが傾くかと思われたのだが、大きな流れは秀吉に変わった。秀吉のスピードと勢いが勝負を決めたのである。 今の世も、この不況を乗り切る時、自分の周りの友人関係や人と人とのつながりが大事であるような気がする。
【文:高田 金道】