戦国新報
 
 
平成6年 後期
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豊臣の崩壊は、女と女の戦い
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 秀吉は足軽からのし上がった人間だったので、主君のためには命も惜しまないという家臣を持っていなかった。だが、加藤清正、福島正則などの子飼いの家臣を必死で育てそれを見事にカバーしたのである。 また自分の教養のなさを補うために、天才的な人心掌握術を身につけた。
 このように秀吉はすばらしい人物眼をもち天下統一しながら、なぜ自らが一代で築いた豊臣家を滅亡させてしまったのだろうか? 原因は秀吉の妻ねねと、側室淀殿との確執にあった。生まれの卑しい秀吉は、名門武家の子女に対するコンプレックスだけはどうしても克服できなかったようである。ねねは秀吉が選ぶ側室が絶世の美女であるとか、大変に教養があるというのならまだ許しただろう。しかし秀吉の選定が、家柄を問題にしない単なる名門ということにあったのは、どうしても許せなかったのであろう。
 しかもねねには子供がいない。秀吉の死後、淀殿の子秀頼などに豊臣家を渡すより、自分を大切にしてくれる徳川家康と組もうと考えるのである。
 ねねは弟の子供たちや子飼いの加藤清正、福島正則などをほとんど徳川方につけ、あげくのはてに小早川秀秋の寝返りを後ろであやつったのである。秀秋はねねの弟の五男で養子としてねねに育てられ、ねねには頭が上がらなかったのである。
 この些細な名門武家の子女に対する秀吉のコンプレックスが豊臣家を滅亡させた原因ではないだろうか。
【文:高田 金道】