戦国新報
 
 
平成3年 後期
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秀吉を影で支えた『名捕手』
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 もし弟秀長が、兄秀吉よりも長生きしていたなら豊臣の時代も大きくかわっていただろう。 豊臣秀吉は、日本の歴史上特筆すべき人物である。戦国時代の人民としては、最高位の関白にまで出世したのだから稀有のことである。しかし、豊臣政権は、僅か、彼一代で終わってしまった。三百年続いた徳川政権に比べて、あまりにも悲惨である。豊臣家崩壊には、いろいろな理由が考えられるが、ひとつだけ惜しまれることは、秀吉の弟秀長が兄よりも早く死んだことである。羽柴秀長は、偉大すぎた兄の陰にかくれてあまり認められていないが、豊臣政権を支える上においてはもっとも重要な人物であったといえます。秀長はその五十二年間の生涯をほとんど戦に明け暮れたようです。秀吉の影となって、また影に徹して秀吉を補佐したと言われます。弟の死を知った兄は、片腕を失ったと号泣したといいます。秀吉は、秀長が自分にとっていかに重要な存在であるか、また豊臣家の行く末を考えるとき、秀長は欠くことのできない人間であることを、よくわかっていたのである。
 秀吉の朝鮮出兵中におきた石田三成を筆頭とする文治派と加藤清正を筆頭とする武断派との衝突は、秀長という仲介者がいたならば、あれほど憎みあう形にはならなかったであろう。秀長は清正達にとっては叔父のような人であり、またその政治性は三成達の文治派にも通じるものがありました。双方に信頼される存在の秀長に代わる人物がいなかったことが、両者の分裂を極め、やがては、関ケ原の戦いの伏線となっていくのです。
 現在の企業でも同じことが言えると思います。『女房役』に徹する人材が多ければ多いほどその企業は信頼され、また伸びていくことができるのだと思うのです。
【文:高田 金道】