戦国新報
 
 
平成3年 後期
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明智光秀は、なぜ三日天下で終わったか!信長という名前の恐ろしさ!
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 天正十年、京都で起きた本能寺の変は、単に信長の死という事件だけではなかった。信長派の武将達のほとんどは、信長という人間を嫌っていたし、またその性格の恐ろしさも十分知り尽くしていた。そのため信長を討つという目的を果たした光秀達は、焼け跡に家臣達を入れ信長の死体を探させたのである。しかし、さがせどもさがせども、信長の遺体はみつからなかった。「信長を討ったはずだが、首がみつからない』とあわてふためいている光秀の顔がみえるようである。あわてたのは光秀だけではなく加担した武将達もおなじであった。首がみつからなければへたをすると猛火の中を逃げて、どこかで生きているのかもしれない。あの信長のことだからどんな仕返しをされるかもしれない。とうとう光秀方に加担した武将達は信長という名前の恐ろしさに、ズルズルと内部崩壊をしてしまったのである。光秀の三日天下は、信長の遺体を発見できなかったのが最大の原因だと思われます。
【文:高田 金道】