戦国新報
 
 
平成3年 後期
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秀吉の一夜城の売り込みは、プレハブ工法の発想から
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 貧農の出から身を興した秀吉が、木下藤吉郎と名乗っていたころのことである。織田信長は、美濃の斉藤氏と戦っていたが、なかなか落とせず苦心の連続であった。そこで信長は斉藤氏の居城である稲葉山城の目前にある墨俣(すのまた)川の対岸に出城を築き、美濃攻略の足がかりとする作戦を立てた。しかし敵の目の前で築城することは不可能に近い離れ業であった。佐久間信盛、柴田勝家と言った勇将がいくたびか築城をいどんだが、目前の敵兵の襲撃を受け、いずれも失敗に終わっていた。この不可能なことを、秀吉は見事に実現したのである。まず用材は墨俣川の上流で切り集め、いかだに組んで流し届けた。この用材はすでに図面通りに切り組みをしておき、現場に流れつくとすぐに組みたてられる工夫がしてあった。つまり今で言うプレハブ工法の発想である。あっという間に完成した城に、敵がまごつくひまも与えず、信長は奇襲作戦で勝利を得ることができたのである。秀吉は、あえて誰もがしりごみする雑役を引き受けるということによって、とてつもない出世の糸口つかんだのである。
 人間、一生に一度や二度、一発勝負を賭けるのもいいのではないだろうか。ヘイコラして堅実に生きるばかりが、人生ではないと思うのだが。
【文:高田 金道】