戦国新報
 
 
平成12年 後期
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金山の争い
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 宿命のライバル、信玄と謙信は川中島で十二年間で五回も戦っている。激しかったのは四回目の合戦で、両軍で三千人以上の戦死者や犠牲者を出している。この合戦、実は「金山」をめぐっての争いとも言われている。信玄の「甲州金山」、謙信の「佐渡金山」の争いとも言われている。もし川中島の合戦がなく、もっと早くどちらかが京を目指していたら戦国の世は、もっと変わっていたかもしれないし、秀吉の天下もなかったかもしれない。
 戦国の世は一国の主になると必ず城を築いたものだが、信玄だけは城を造らなかった。信玄は、領民からの税金を利用して、莫大な金と人を使って城を築くことより、人材育成に金をかけたのである。この信玄の人材育成から生まれたのが「人は城、人は石垣、人は堀」という有名な言葉である。城を築く費用よりも領民の生活の安定のために金を使ったのである。だが信玄は決して相性の合う部下達だけに囲まれていた訳ではないと思う。相性の悪い者、問題のある者等、うまくコントロールしたからこそ、城を作らずとも甲斐の国をうまく支配できたような気がする。
 今の不況の世の中、設備投資も大事だが、信玄ではないけど、人材育成がもっと大事なような気がするが、なかなかむずかしい。
【文:高田 金道】