戦国新報
 
 
平成5年 前期
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“秋田美人”のルーツは…?
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 関ヶ原の合戦の時の徳川家康の業績評価の基準は、「味方をしなかった者はすべて敵」であった。中立という立場も認めなかった。
 佐竹義宣は常陸国を中心とする五十四万石の大名だった。源氏の流れを汲む名門だが、当時石田三成に恩を感じていたので、関ケ原の合戦は中立を守った。これが家康の機嫌をそこねて、佐竹は秋田に移封されてしまった。
 佐竹義宣はいさぎよく秋田に行った。旧領国の常陸から、家臣や商人が根こそぎ移った。民族の大移動である。このとき、領内の美しい女性も全部移った。そしてこれが「秋田美人のルーツだ」というのである。が、真意の程は定かではない。
【文:高田 金道】