戦国新報
 
 
平成5年 前期
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他人のアイデアを拝借して、
一国を得た山内一豊
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 山内一豊は一代にして土佐一国の大名にのしあがった人物である。もともとは尾張の下級武士であった。すぐれた武芸も知謀もないのに、いつのまにか出世したのである。彼の出世は妻の「内助の功」のおかげだとする話もあるが、彼女がへそくりで名馬を買ったという話は後世の作り話にすぎない。
 山内一豊は「関ケ原の戦い」のときに、さしたる武功もないのに格別の加増にあずかった。理由は彼の一言が家康を大いに感激させたからであった。家康は諸将を集めて「私について三成と戦うもよし、ここを去って三成につくもよし」と言った。その時、山内一豊は落ちついてこう言った。「一豊の領地を家康殿に差し出します。兵糧も十分あります。そして一豊の妻子はことごとく家康殿に差し出し、一豊は自軍をひきいて先陣をうけたまわります」
 この山内一豊の言葉は家康を天下人と認め、その指示に全面的に従うことを宣言したものになった。彼の言葉の後は「三成射つべし」の大合唱になった。
 しかし、家康を大感激させた一豊のこの時の言葉は、実は彼の領地の隣にいた堀尾忠氏のアイデアによるもので、山内一豊はちゃっかり自分の考えとして、最高の舞台でそれを拝借したのである。
【文:高田 金道】