戦国新報
 
 
平成10年 前期
もどる
「心」のゆとりがなかった光秀
すすむ
 人は誰でも自分が一番かわいいと思うし、誰よりも幸せになりたいと思う。そしてやりたいように生きたいと思うのが人間です。しかしそれは相手にしても同じことです。だが、自分の主張をすべて通す「利己主義」であってはお互いに衝突するような気がする。お互い「心」を持って、まず自分を反省して相手を立てるという「心」のゆとりを持って行動すれば、世の中楽しく生きられるような気がする。人は愛すれば愛される。憎めば憎まれる。疑えば疑われる。信じれば信じられる。与えれば与えられる。すべて自分の「心」の持ち方次第のような気がする。
 本能寺の変で明智光秀が織田信長を自害に追い込んだ時、秀吉は「光秀が信長様を討ったというが違う。信長様が光秀に自分を殺させたのだ」と言った。信長の聞く耳持たずという性格と妥協を許さない性格の厳しさに部下の光秀がついていけなくなり、謀反を起こしたのである。
 秀吉は十のうち八つまで気に入らなくても、憎めぬ部分が二つあればそこがかわいいと相手を受け止めた。するとだんだん嫌な部分がひっこみ良い部分が出てくるようになる。それで部下の方もこちらを好いてくれるというのである。 不況な世の中、秀吉のように人の使い方が大事な気がするが、なかなか人を使うということはむずかしいことだ。
【文:高田 金道】