戦国新報
 
 
平成9年 後期
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戦国時代も今の時代も「資格」の時代
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 いつの時代も同じだが、実力者のトップが死ぬと後継者問題で必ずもめごとが起こる。 信長が光秀に倒された後、やはり争いが起こり、次の天下人を誰にするかでもめた。うまく泳いだのは秀吉。まず真っ先に光秀を討ち、これで「天下人の候補者」の「資格」を一つ手に入れた。次に信長の子供達や織田家の重役達への根回し、これも巧妙に泳いで「第二の資格」を手にした。そして信長の長男の子供を立てて自分は後見人となり、やがては名目上のトップという「資格」を手にし、ついには京都朝廷から関白太政大臣の位の「資格」も手にしたのである。
 この間、黙って秀吉の動きを批判的な目で見ていたのが家康である。家康はもともと信長の同盟者であって友人の仲である。それが信長の家来筋の秀吉がどんどん進出してきたから家康は面白くない。普通であれば同盟者である自分が次の天下人になってもいいはずである。 関白になった秀吉は就任の祝賀パーティを開くから、どうかおいでくださいと招待状を出した。秀吉の進出ぶりに目を見張る大名達は次々と出席の返事を出した。だが、家康だけは返事を出さなかった。大名達は家康が来るか来ないかクールな目で見守っていた。 もし家康が来なければ、秀吉は大したことはないと各大名達に思われる。そう思った秀吉は躍起になった。秀吉は自分の母親を人質として送りつけ家康をパーティに参加させることに成功した。席上(大阪城)にて秀吉は、鬼のようなすごい表情で「徳川家康、この度のご参加ご苦労である」と感情むき出しであいさつをした。家康は顔色ひとつ変えず静かに秀吉に礼を返した。各大名達は「秀吉のバスに乗り遅れるな」と一斉に忠誠を誓ったのである。
 パーティの後、家康と二人きりになった秀吉は特別の礼儀をつくしたのであるが、家康は「いずれは俺の天下になる」と思ったのである。
 いつの時代も資格を手にするということはなかなかむずかしいことである。
【文:高田 金道】