戦国新報
 
 
平成7年 後期
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人の恩を忘れた秀才、光秀
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 戦国時代で時代に先駆けて近代的な組織作りと、家柄や格式の関係なしに能力主義で人材を登用していたのが織田信長である。
 光秀は失業中で浪人の身から、また秀吉は足軽からの抜粋である。やがて光秀は近江、丹波三十四万石の大大名にまで出世した。多くの譜代の重臣達を差し置いてわずか十年というスピード出世であった。また最も信長から目をかけられ、誰よりも恩恵を受けていたのである。
 本能寺で謀反を起こした後、光秀は回りの誰からも協力をもらえなかった。周囲の目は『あれだけ信長様に目をかけられていたくせに何というやつだ。この裏切り者』と誰も相手にしなかったのである。これが光秀の三日天下と言われる敗北の原因であった。ようするに『恩しらず』というレッテルを貼られてしまったのである。謀反を正当化するには光秀はあまりにも信長の恩恵を受け過ぎていたのである。
 いつの世も人の恩は忘れてはならないということをこの話は物語っているが、現実はなかなかむずかしいようである。
【文:高田 金道】