戦国新報
 
 
平成7年 後期
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秀吉と光秀の信長を見る目
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 信長に仕える二人の家来、木下藤吉郎と明智光秀には信長に接する態度に大きな違いがあった。
 信長は気性の激しい武将であった。藤吉郎は、足軽から取り立てられ、信長を決断の早い勇敢な大将と、心から尊敬していた。「大将の決断は見事でございます。我々も思い切って戦えます」といって賛辞を言う時が多かった。
 一方光秀は、源氏の流れをくむ名家の出。信長に仕えながら、どうも礼儀を知らない粗暴な人だ。一国の大将たる者もっと礼儀を身につけなくてはならない。と考えていた。そのため「物事にはもうすこし気配りをされた方がよろしいのではないでしょうか」などと、なかば説教じみた言葉を言うことがたびたびあった。
 こうした二人の家来のどっちを好ましく思うだろうか。自己顕示欲が強い信長のことである。光秀に対しては「細かいことを言ううるさい奴だ」と苦々しく思い、藤吉郎の方をかわいがるようになっていった。このことから、本能寺の変という悲劇が生まれたのではないだろうか。
 今の世で考えると、光秀のように学歴の高い人物も会社にとっては必要な人材ではあるが、このように不況であれば、やはり秀吉のように個性あふれるバイタリティある人材が多く必要であるような気がする。
【文:高田 金道】