戦国新報
 
 
平成4年 前期
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本能寺の変で信長が死んだ時、一番喜んだのは徳川家康?
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 永禄五年(一五六二年)、家康は信長と盟約を結んだ。二人の同盟は信長が死ぬまで続いたことから、この二人は本当に仲が良かったように思われているが、どうだろうか。天正七年(一五七九年)の秋、信長は自分の子より家康の子、信康が優れているのをねたんで、家康の妻と信康が武田勝頼と内通しているとの言いがかりをつけて、妻子を殺さなければ徳川家をこの世から消してしまうと言う要求を突き付けてきた。結局、家康は自分の妻を殺し、信康に切腹させざるを得なかった。この時の家康の胸中はどんなものだったのだろう。しかし、ねたみの強い信長が、これもまた明智光秀のねたみによって殺されたと言うのは皮肉なものである。この時の家康の胸中はしてやったりと光秀に感謝したかったのではないだろうか。
【文:高田 金道】